【 わたしたちは 知識を詰め込むより 智慧を 詰め込もう】

テレビの クイズ番組を 観ることがある。
テレビの前で こっそりと参加するのだが
残念ながら わたしなどは 99% 当たらない。
最初から 解答を 教えて貰っていても
あそこまで スラスラ 解けない。
幼少の頃から 勉学に励み 一杯 知識を詰め込む。
脳のなかに 蓄積された 知識量は 膨大なものだ。
長良川の 鵜飼いを 知っているね。
篝火に 照らされて 鵜が一斉に 川に潜る。
一旦 飲み込んだ 鮎を 今度は漁師さんの手によって
次々と 船になかに 吐き出すのだ。
鵜は 喉 ( 食道 ) を 締められているので
吐き出さざるを 得ないのである。
しかし わたしたちの 知識は 鵜飼いの鵜のように
覚えたままの姿で 吐き出してしまっては
ものの 役にも 立たなのだ。
【知識】というものは 口から入った食物が
胃のなかで 充分消化され 吸収されるように
自分の 頭の中で 十二分に把握した上で
使わなくては ならない。

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1番 如実に現れるのが 国会答弁だ。
矢継ぎ早の 質問をうけ 書いて貰った答弁書を
しどろもどろで 読み兼ねている光景を目にする。
『あの 答弁、自分でも 何をいっているのか
分かっていないのだろうね』
わたしも そう思う。
何代か前の 総理大臣で
書いて貰った答弁書を 読みかねるのではなく
知識を 自分の意見として消化して
答弁する人がいた。
読みかねる 答弁を聞くよりも 説得力があり
聞いていた方も 心を 打たれたにちがいない。
スポーツでも 趣味でも 勿論 わたしたちの仕事でも
定石を 頭のなかに 、身体全体に 叩き込み
これを しっかりと 身につけて はじめて
定石を離れて 臨機応変に 自由自在に
対応できることが できる。
落語でも 演芸でも 勿論 わたしたち 僧侶も 徒弟制度では
師匠が 手を取って指導することはなかった。
弟子は 師匠の身の廻りをしながら
師匠の 芸を こっそりと 盗むのである。
つまり 身体で 覚えたのだ。
そして そのときに【 知識 】が 【智慧】となる。
みなさんの 仕事でも 知識ばっかり 頭に詰め込んで
批判ばかりすることよりも
身体で 体得して 感謝する心を
養って貰いたいものである。
合掌
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