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【 絆 】

『今年の漢字』に 【 絆 】が選ばれ、

京都清水寺の 森 清範貫主が力ず良く 揮毫した。


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このジジの写真は立ち会った訳でも、

撮りに行った訳も無く、

毎日新聞の第一面に掲載されて居るのを載せただけだ。

応募総数は昨年の28万5000票の訳2倍、

約50万票を集めたとか。

東日本大震災やタイの洪水、

天変地異に驚愕した私たちが

余りもの無力化を感じ

人と人との繋がりの大切さが如何に大切であるか

再認識させられた由縁だろう。

 【 絆 】と言えば先日中国からの お客さんが有った。

中国からと言ってもお仕事の関係で10年ぐらい

東京で住んで居る。

お越しになったのは 呉さんと言う社長と、

岩井さんと言う日本人スタッフの方 二名で有るが、

先日 9月にはジジが、

11月の寛旭管長の晉山式に住職が来中した時にお世話になった

範さんを通しての出会いだ。

日本の会社を中国に誘致するのが 本業らしいが、

範さんの様に観光関係も着手なさっておられるとか。

広島・大阪でお仕事の合間を縫っての来島だが、

大観音を拝み、山ノ観音をお参りしたら、

寒霞渓は流し見ぐらいしか出来ない程、

駆け足行脚だったが 一カ所、一カ所、真剣に拝んで参られた。

今の今まで全く知らない者 同士の私たちが、

範さんと言う友人をとうして 一夜にして100年来の知己となった。

別れ際もガッチリと手と手を握りあい、お互いの再会を誓う。

これが 森貫主が書かれた【絆】そのものではなかろうか?

そして、絆は【太く】。【長く】。【大きく】。

仏教でいうと絆は 広い意味で考えると 《 和 》と言う字かな?

狭義では色々有るが。

今日は、 嬉しさのあまり、呉さん、今井さんの許可を得て お写真を掲載することにした。


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この嬉しそうなお顔をご覧あれ。


この 絆が末長く続きますように。

合掌
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みんなで お墓参りをして

住職を中心に お墓参りと共に 掃除をした。

正月で帰ってきて居る 子供たち、孫たち、

み~んなでだ。草を抜き、墓を磨き、お花を供え、お水をあげる。

『この墓は ジジのお父さんや お母さんの 墓だよ』

『ふ~ん…?』

もう一つ ピンとこないようだ。

『ジジの お父さんやお母さんが居なかったら、ジジも

居ないし、ジジが居なかったら ママたちも居なかったんだよ。

『すると、パパやママが居なかったら、私たちも 居なかったんだね』

『ジジの パパやママは偉いんだね』

『神さまかな? 』

『ジジのパパやママや ジジ達や あなたのパパやママが、一人でも居なかったら、

あなた達も いないんだぞ』

『 ふ~ん 命って大切なんだね。』

『大事にしなければね』

汚い話だが、我が寺には 素晴らしい秘密兵器がある。

秘密兵器というより、おじいちゃんやおばあちゃんが

今でもトイレに住み着いているのだ。

孫たちは、それぞれ 自分でトイレに行けるようになった…

家ではできるものが 寺では少し恐い。

しかし、寺のトイレにはドアのノブに

( 智慧の輪 ) が付いて居る。

30数年前に、孫の パパやママが はじめて1人で

トイレにいき始めた頃、先代の爺さん、婆さんが

『怖くないように』と、輪を付けてくれたのだ。

孫たちは知っている。

それが 単なる 【 輪 】ではなくおじいちゃん、おばあちゃん

そのものでである事を。

先代は両方とも、とっくに お浄土に召されたが、その 霊は 孫たちの

心の中に永遠と生きつずけている。

いや、ひ孫たちの心の中にも。

『ひ お爺ちゃんや、おばあちゃんが見てるよ。上手に トイレ しなさいよ。』

『はーい 』

弾けるような声。

寺中、明るい熱気と共に お正月を迎えそうだ。

【 足る 】を知ってこそ豊かな人生

今日は お花の先生が 2人来られて

お正月用の お花の意飾りをしてくれた。

先生の1人は今年、ご主人を亡くし『1年は早いものですね』から

最近 亡くなった方々の話になり

『誰それは 主人が亡くなって、追うように亡くなった』

『主人が 全て、切り回して居たからなあ』

『誰それは、子供達が居ないから 会社が大きいだけ 跡が大変だ』

ジジは山の上でチンとして居るから 余り聞こえて来ないが、

先生方は色んな所を回られているので山ほど話が飛び出してくる。

結果 『そんな事、考えたら 私達、善( よし)としなければ』

『上見ればきりがなし、下を見ればきりがなし…』と言う、終着点に辿り着く。

お釈迦さんは言われている。

【花を摘むのに夢中になっている人を、死は捕え さらって行く。

あたかも眠って居る村を大洪水が押し流していくように。】

花とは【快楽】の事。快楽を求めて止まない、つまり欲望の事である。

[物欲][性欲][食欲][名誉欲]色んな欲望があるが、

いい加減に満足しなければそれは満たされず、

いつも渇きを抱えている苦しみ抜く事になる。

それを【渇愛】という。

お釈迦様は

[求め求めて 何事にも執着し物事に満足しない人を、死が克服する]

と言われている。

仏教では[足るを知る ]少欲知足 と言う教えを大切にして居る。

足る【満足 】を知らない人は、どれだけ多くの花を手に入れても、

心は直ぐに渇き次の花を求めたく成ります。

欲張らず、多くを求めず、今、ここにこうして自分がある事に

感謝をして日々を過ごしましょう。

『ありがとう』と、いう感謝を忘れないで。



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合掌

【今日は お餅つき】

お正月用の 餅つきをした。

各 ご本尊様に 元日のお餅を食べて頂き、

全国の皆さんを また今年一年、宜しく

見守ってくださいと言う ご本尊様へのお願いと、

正月に参拝して来られる檀信徒の方の

お餅と、その数も 半端ではない。

愛する人にお餅を一杯 持って帰って貰い、 縁を広め

しあわせになって頂く人を増やそう。…

そんなお餅だ。

お釈迦さんのことばに

【たくさんの花束から 多くの山花飾りが作ることができるように、

人として生まれて 死んで行くのなら、

生きている間に、多くの善をなすべきである。】

生きている間に なるべく多くの善をおこない、良き人生を送れと言われている。

綺麗な花を沢山集めれば、沢山の美しい花飾りを作ることができる。

それと同じようにあなたが 多くの善行を積み

多くの人と良い縁を結んで周囲に善の心を拡ていけば、

あなたがあなただけでなく、多くの人が良き人生を送ることができる。

今日、ついている餅は、何を隠そう、

お釈迦様が仰る、【 バラの花 】そのものである。

どうか、心こもった お餅を食べて、来年一年、

げんきで幸せな 日暮らしをして欲しいもので有る。

杵と臼の音が力強く 響く。
合掌

『 たっだいまーっ ! 』

『ママッ ! おかえりー』

『おかえりなさい ママー』

3泊4日で 旅行から帰ってきたような顔をして

ママが病院を退院し 預かっていた

子供達が 満面の笑みで ママを出迎えた。

ジジが言うのも妙な話だが ママが帰ってくると、

いや、ママが居る所は

どんな場所でも楽しい。

辺りが明るくなり、話に花が咲く。

逆に 入って来るだけで その場が暗くなる人も居る。

何が どんなに違うのでしょうね。

ブッダは言われている。

【村でも 町でも 林でも 山でも 海でも 聖者が住む場所は楽しい。

世間の人が楽しまない場所も 欲を離れた人は楽しむだろう。彼らは 快楽を求めないが故に。】

執着を離れ 快楽を求めない人は 森でも、墓地でも 何処で住んでも 愉しい生活が出来る。

欲の皮を張っていると、欲望は 富士の高嶺よりも高く、大きく増大し、欲望は結局 満たれず

何をしても、何処に行っても不平不満が出て 満足できず 心から愉しむ事は出来ません。

欲から離れ 今、自分がいる世界を無心に あるがままに受け入れる時、おのずと歓喜は

生まれる。大切な事は、しあわせを探しに、青い鳥を探しに 何処かに行くのではなく

[ 今いる ここ ]を自分で楽しい場所に変え、心安らかに過ごす為の 【 智慧 】を手に入れる

事だ。周りに居る人が心から 楽しめる為に。

ジジも ママに弟子入りをして、真の しあわせをつかもーっと。
合掌

久々に上京する

先日、小豆島大観音にて特別セミナーがあり

石破 茂先生に貴重なお話をして貰い、

きょうは そのお礼の為に、久しぶりに上京した。

先生は会うたびに素晴らしい人柄を発し、

会うごとに好きになる。

富士山が視野に入る。

冬空だったが真っ青な空で クッキリと見ることが出来た。

よく見えると 余りにも偉大で雄大で

有難く思わず知らず手を合わせたくなるが、

見えなかった時のガッカリ度は大きい。

【 富士は日本一の山】

世界遺産云々の話を聞くが

早くそうなって欲しいものである。

以前、信者さんが

『富士のすそ野にわずかながらに土地を持たせて貰いました。

だって日本一の山のすそ野に私の土地があるなんて、

ロマンチックでしょう? 』

『エッ それだけの為に 買われたのですか? 』

そんな思い出を胸に電車は通り過ぎていった。

ところがどうだ。

実際に上がって見ると火山灰あり、

ハゲ山でゴミが余りにも多い。

お上手にも『綺麗だ』とは思わない。

飛行機から見下ろすと 余計にひどい。

これも般若心経の【 空 】ですね。

遠くからみて 拝みたくなる位 綺麗、雄大、

日本一の山も【富士山】。

近くに行って見る 【 ゴミの山 】 も富士山。

富士山という実体は同じでも 私たちの感性によって全く違う物が見える。

『見た目、目先だけで軽はずみに物事を判断せず、

その奥に何があるか熟知してから行動しなさい』

と、お山に お教えを頂いて居るのかもしれない。

もっと植林をし、

もっともっと清掃をして

誰がみても名実ともに美しい

【日本一の山】になって貰いたいものだ。

『えっ、ジジの寺をもっと 掃除しろですって ? 』



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合掌

素晴らしい プレゼント

朝 6時。

『うわー サンタさんだ ! 』

孫の歓喜の声がこだました。

ジジの次女の体調が 急に悪くなり緊急入院することになった。

ジジ夫婦も慌てて駆けつけたが 2~3日で退院出来るとかでホット胸を撫で下ろす。

丁度,お仕事のパパをお家に残して芦屋での出来事だったので、長女夫婦が一睡もしないで

献身的に処置し 大事に至らなかった。

土曜日で三女のパパもお休みだったので 孫たちは

三女一家が面倒を見た。

ジジが のこのこ島から駆け付けたのは、午後3時も過ぎていた。

本人は拍子抜けするほど、けろっとしている。

横に憔悴し切った 長女夫婦。

やがて、パパもお仕事を休んで飛んできた。

三女一家も 孫たちを連れて病院に。

『わたしは もう大丈夫だから、みんなで夕食でも食べてきたら』

『ヘェ~』

病人に諭されて、みんなでゾロゾロ食堂にむかう。

『真夜中に おじさん ご夫婦に物凄い世話になったのよ』

『それこそ、寝ずの看病だったな』

いつも我が子のように可愛がってくれている おじさん夫婦が危機を救ってくれたのだ。

今年の 文字は【絆 】だったが、心からそれを感ずる今夜だった。

家族の絆。おじさんとの絆。

『みんな 各々の家庭でクリスマスイブを計画して居たが 次女のおかげで、

みんなでイブを楽しむことができたね』

『次女はサンタさんかな? 』

『サンタさんだけがイブに参加出来なかったね』

『おじさん達も呼びたかったね』楽しい会話が弾む。

それぞれ 随時解散して、今日と明日、ジジたちが孫の面倒を見る事になった。

あした、会社に行くパパが ジジたちに ゴニョゴニョ…。

明る朝、目が覚める。

『うわー サンタさんだ !』

『おじさん サンタさん。…おじさんサンタさん。…パパ サンタさん…』

『ジジーッ。おじさんサンタさんや パパサンタさんって 居たーっ ? 』


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合掌

怨 ( うらみ )は捨ててこそ 静まる

宮下 真 先生の【 ブッダ 】と言う本を読んでいたら、

元スリランカ ジャヤワナルデ大統領の事に触れられていた。

大統領は [お釈迦さまのご遺骨の一部] を

『世界の全仏教徒の幸せと平和の為に』と、

国の宝を小豆島大観音に勧請され仏歯寺の管長さまがわざわざ

持って来てくれ 昭和60年【仏歯寺東漸法要】を盛大に執り行なった経緯がある。

スリランカの大統領のお家にお礼に行った時、例のサンフランシスコ講和条約の話をされた。

昭和20年、終戦を迎え25年の平和条約締結の際、代表だった大統領はお釈迦さまの言葉を

引用し50ヶ国の代表を前にして【憎しみは 憎しみによっては止まず。ただ愛によって止む】

『終戦を迎えた今、日本叩きはやめにしよう』と、対日賠償権を放棄した、歴史上 有名な話を

直接 聞かせてくれた。

【釈迦のことば】

この世は 怨みにおいて恨みを持って返すならば、ついに怨みは静まることは無い。

怨みを捨ててこそ静まる。これは永遠の真理である。



確かにそうで有る。恨みを恨みによって、

暴力を暴力によって返したら、

イタチごっこ、報復のしあいで とどまる所を知らない。

昔、師僧が諭された【 許す 】。

この言葉が究極の心理ではなかろうか?

宮下先生の本を読み、ただ 懐かしく

『そういれば、大統領のあの時の言葉、確かビデオに撮ったぞ)

と、血眼に成り、寺中 隈なく探したが、とうとう見つからなかった。

ジジにもっと もっと人間として修行をしろとの お諭しの意味だろうか?
合掌

【 少欲】をすて【大欲】を得よう

先日、師僧がお越しになった時、

ジジがつまらん事で一喜一憂している事があった。

その時、『そんな小さな欲を捨てて 大きな欲を持ちなさい』ポツリとお教えを頂いた。

【少欲】とは 極論すれば大変な

《 自我を満足させる欲得 、色欲、貪欲、財欲》の事で

【大欲】とは《布施をする 》財世利人の事である。

仏教では 例えば【十善戒 】。

~をする べからず。~ をする事 なかれ。

全ての諭しの言葉が否定文である。

ところが真言密教では全て 肯定なのである。

真言宗のメイン経典の1つに【般若理趣経】というお教がある。

以前にも話したが三蔵法師が難行苦行の末、

インドから持ち帰り 中国にて翻訳され お大師さまが日本に持ち帰られたものだ。

この経典の初段には

《妙適清浄句是菩薩位。欲箭清浄句是菩薩位》(びょうてきせいせいくしほさい)

【~は、これ清浄にして菩薩の位なり】と、17段に渡って 肯定している。

この中には、私達、凡人が読んだら アッと言うような文句もあり

ジジの不勉強では十二分に説明でき兼ねる所もあるが、

要するに 『俺が』『俺の為に』と、少欲を得る為のものでなく

【 世のために人の為に差し出す欲だったら 】

そこに有る 大欲をいくらゲットしてもいいですよ。

もうじき クリスマスが来ます。

プレゼント 楽しみですね。

ところが、仏教にもクリスマスが有るのです。

【 精進の日 】と申し、毎月 21日に行なっています。

全国津々浦々の善男善女が しっかりと手をつないで お大師さまと共に祈ると共に

済世利人の為に【布施】をし合いたいものである。
合掌

【 因果応報 】

【因果応報】という 言葉がある。

私たち、みんな知ってますよね。

善行をすれば良い結果が出るし

悪行をすれば 必ず酬い(むくい)がくるという事を。

先日、友人が面白そうに話した。

レンタカーを借りて運転をして居ると うっかりと

自分で交通違反をしているのに気が付いた。

『ありゃ! 車を停めてなおそう』

思って居る矢先、向こうからパトカーがきた。

瞬間、ハンドルを切って 方向転換して入って行った所が、

実は警察署だった。

それを聞いて ある遍路団体の幹部の方のお話を思い出した。

たまたま 遍路はつれず

団長が運転をし、幹部の人が 同乗していた。

信号機の前で 『 団長~、赤や! 』と、叫んだのも

虚しく 歳をとった団長の車は信号機の中に突入してしまった。

『しっ しまった~! 』

生真面目な団長は ブレーキを踏んで 信号真横の路地に車をいれた。

ところが、路地には

これから 《ネズミ捕り》をやろうとしていた警察官が居て、

急に車が突入してきたのでビックリ。

『 しっ 信号無視! 』慌ててキップを切ってくれたそうな。

『なんや、真っ直ぐに行ってたら助かって居たのに』

団長は悔やんだ。

さて仏教で言う 【因果応報 】とは?

先ずは釈迦が悟った【因果の法則】というのが有る。

釈迦は人生の苦しみの原因を突き止め

( 煩悩 )、それを滅する方法を発見した。

つまり三密行( 身口意)により 良い原因を作れば

良い結果が出るし 悪い原因を作れば悪い結果が生じる。

【因果覿面】と言う言葉があるが

この事から来ているのだろう。

その善悪により、輪廻転生して 必ず 私達は【六道】の何処かに生まれ変わるとの教えだ。

私たちは来生の しあわせの為に 今生で善行を行うことを心掛けなければならない。

私たちの【身体で】【口で】【心で】。
合掌

【 方便 】

孫を預かる。

お姉ちゃんが居れば抑止力になって仲が良いのだが、同い年というの、はなかなか難しい。

親からは『仲良くしなければ いけませんよ』と、言い聞かされて居るので、

本人も最初は 仲睦まじく遊ぶのだが 妙なもので、そのうち 必ず喧嘩になる。

親が帰ってきて 『ジジ、ありがとう。仲良くしてた? 』と、くる。

大変な事件発生だったら進言しなくてはならないが

『楽しそうに遊んでいたよ』と、報告する。

十善戒(じゅうぜんかい)の第四句に 【 不妄語 】という仏のお教えがある。

言うまでもなく〈 汝 嘘をつく べからず 〉で

生活して居る中で 決して嘘をていては

ならないという戒めである。

【嘘も 方便】と言う言葉を皆さんは、耳にすると思うが

ジジのこの時の行為がそれだ。

〈嘘は大罪悪であるが 良い結果をもたらす手段とした時には 必要である〉と、説かれる。

【方便 】だけを紐解くと〈 その人を真実の教えに導く為、仮に取る 便宜的な手段〉とあり

更に 【方便力 】を見てみると

〈 仏が衆生を導くために臨機応変の手立てを用いる(智慧)の働き〉とあります。

よく 死ぬ順番が親子逆転した場合、ひたすら親には 子供の死を伏せようとする事が

あります。寺は先代の時、三度の火災にあい、ジジもその二度を経験している。

サイレンの音を聞くだけで今でも、身が震えるという恐怖を体感して居る。

母方の 祖母は 寺の火災を知らずまま亡くなった。

僅か30分 車に乗れば行けるところを私たちが会いに行くだけで徹底的に伏せた。

祖母は 死ぬまで嘘をつき通されたが 結局、

幸せな最期を迎えた。

嘘をつくことは大罪ですが、【方便 】仏様が理解してくださって居る

ウソは許して頂きましょう。

それでその人が喜ぶのだったら。


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合掌

慈悲

先日の家族旅行にて

ホテルのプールに降りて行くと

仲の良さそうな夫婦が子供さんを連れてプールの中で

泳いで居るのが目に付いた。

満面の笑みで 夫婦が子供さんの水泳を指導していた。

“良い夫婦だなあ。良いご家庭だなあ。” キャッキャと言う子供さんの歓喜の声を

聞きながら、ジジも一緒に極楽浄土の雰囲気を味わっていた。

やがて 家族がプールから出て来た。

ご主人の背中を見れば、背中一面【不動明王】の

刺青があった。

今、若い人たちで流行っている 2~3日で消えてしまう刺青まがいの

物がある。

『おたくも してもらったのですか? 』と聞くとなんと本物だった。

『こんな仏の顔をして居る人が…』

驚愕の顔を隠せず 這々の体で部屋まで帰った。

NHKの子供番組が放映されていて、ダンスを習って居る孫が、テレビに合わせて踊って居る。

年下の子供達も、それに合わせて一生懸命、手足をふっている。

なんと、その一挙手一投足を見ている家内が

いつもは【鬼の形相】なのだが、慈悲溢れた

仏の顔になって 孫のダンスに見入っている。

【 慈悲 】を分解してみましょう。

【 慈 】は梵語では マイトリー( 友情 ) の意味。

【悲 】は梵語でカルナー( 同情、哀れみ)の意味。

仏教では前者は“ 衆生に愛情を注ぎ楽を与える”。

後者は“その人の心になって共に泣いてあげ、苦しみを取り除いてあげる” と、

説明する。

総じて【抜苦与楽】(ばっくよらく) 苦を抜き楽を与う と

言う意味だがこれが人生で1番 必要なことである。

背中一面に不動明王を抱いて居る 幸せそうな家族。

いつも鬼の形相の家内。

心も姿も微笑ましくなる 仏さんである。

地獄や極楽浄土は死んでから行く所ではなく、

生きて居る今、私たちの心の持ちようによって どちらにも直ぐに行けるところで有る。
合掌

六道輪廻

孫同士が 喧嘩をする。

ジジからすれば些細な事だが 当人にすれば大騒動である。



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その多くは 【 物欲 】から始まって居る事が多いように思う。

アダムとイブは禁断の実を採ったばっかりに、

神よりお叱りを受け 神の国を追放され

全ての人間は生まれ落ちた瞬間から【悪】として生れてくると聞く。

《 徳 》を積み

《 善 》を成して神の国へ行くには 並大抵の苦労ではなさそうだ。

ところが お釈迦さまは

人間は生まれ落ちた瞬間から【 善 】を持って生まれたのだと説く。

知恵が付くに従って

【 自我 】が芽生え 【 物欲 】を求める様になる。

皆さんは【 六道 】という言葉を聞いた事が有りますか?

私たちが善悪の業因によって

必ず赴くとされる 六種の境界である。

《地獄》《 餓鬼 》《畜生》《 修羅 》《人間》《天界》

の六界の総称なのです。

生前の私たちの業《カルマ)の善悪のの量によって

死後、私たちが到着する終着点なのです。

また いつか 1つ1つ お話してみようね。

この六道の間を 生まれ変わり死に変わって迷いの生涯を続けることを 【六道輪廻 】と言う。

如何に 私たちが生かされて居る

この間に 世のため人のために善業を積むか

反対に悪業を積むか 大きな違いですね。

善業といっても、そんなに仰々しい事ではないのです。

隣にいる方が、喜んでくれたらそれで良い、微笑んでくれたら それだけで良い。

孫たちも やがて【知恵】がつき、

菩提心を起こして【智慧】を慣熟して物欲から慈悲の

心を持つ人間に成長する事だろう。

その心自体がお観音様なのです。

ジジも、もっと 行をしなければ 追いつかれるな。
合掌

無財の七施

子安観音寺の奥の院 【山ノ観音】に

【御来迎の滝】と言う小豆島屈指のお滝がある。

男滝と女滝の2本の瀧は 今を去ること1200年前に

弘法大師 空海がそこには不動明王を

勧請して病気病薙で苦しんでいた大勢の衆生を救ったと、ある。

山ノ観音が小豆島唯一の

【病気封呪専門道場】として島内外の信者に信仰されている所以だ。

島内に 私が勉強を伝授されており、人間的にも尊敬をしている

生命学の先生を中心に【お滝の会】が発足した。

何年か前には、大勢のお滝の会のメンバーのご尽力に

よって老朽化されていた お社台を新築され 、

それを機会に山の中にあるゆえ 滝の存在も

知らなかった善男善女がお滝に入り始めた。

オスヤを作るにしても山道を材料、

木材を運び上げるだけでも大変な労力なのに、

完成に至っては艱難辛苦だっただろう。


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今日は 先生を中心とする【お滝の会】のメンバーが滝のに上がって、

来年に向けて ご本尊さまに清々しい正月を迎えて頂けるよう、

来春からの行者の皆様が気持ちよく

【行 】が出来ますようにと、

道直しを中心に 各所を修繕するご奉仕をして頂いた。

見、聞き、申さなければ、誰も知らない 山の奥の奥のお話だ。

これを 【 無財の七施 】という。

〈 何の代償も求めないで心身を差し出す 〉と言う、布施行の一環で

お互いが与えたり 貰ったりするのでは無く、

お互いが 差し上げたり頂いたりすると言う

感謝の念を持って行う 【行 】なのである。

心理学的にみると、こうした状態を

『自分が嬉しい時、共に喜んでくれる人が側に居ると喜びも倍増し、

自分が悲しい時、共に悲しんでくれる人が側に居たら、

その悲しみは 半減する』と、言われている。

お滝の会の皆さん、本当にありがとう。

皆さんの善意、ご本尊さまは知っていますよ。

合掌

小豆島大観音 特別セミナー 開催

一部に

前自民党政調会長〈 石破 茂 先生》

二部はジジと、住職の師僧である 《塩田 良治僧正》

が お話になったが

本来、【夏季大学】として 夏の間に開催するのだが

今年は名前を変えての今日の開催になった。

石破先生は 農水大臣の時代、

大観音の【奉賛会顧問】として

ご就任頂き、

大観音建立にあっては先生自身の【胎内仏】を

奉納なさっておられる 大信心家で、

今回は【奉賛会、顧問】と言う立場での来島だった。

師僧はジジだけでなく住職の【 師 】で仏教のイロハから

ジジ、住職の全ての相談に乗って頂いている大住職だ。

【一流伝授】【学修勧請】(今回は訳をしない)は勿論、

大観音建立にいたるまで全てご指導を頂いている。

石破先生は【これからの日本】

師僧は【空と海】と題して講演した。

大観音奉賛会の

県議、町長、前町長、町会議員は勿論の事、

飛び入りで地元の代議士もお顔を見せた。

島民だけでなく 先生のご出身の鳥取からも

聴衆者がこられ ムンムンとした熱気の中で

無事、セミナーは終った。

石破先生に至っては、東京を出発なさり 船の中で弁当を食べ、

電光石火の如く、大観音滞在時間 1時間半~2時間たらずの在寺だった。

無事、セミナーは終ったが

これには実行委員会長を始め、

委員の皆様、有縁の方達の

何度も何度もの作戦会議、

ご奉仕の賜物であった事は言うまでもない。

般若心経の 【 空 】

家族が各々、ホテルの部屋にはいる。

湯槽にお湯をはり、入る。

『あ~ いい気持ち。極楽、極楽。』

部屋全体が暗い。

これも ジジが寺にいる時は 贅沢をし過ぎているのかもしれぬ。

テレビを付けると テレビの映りも悪い。

『イヤイヤ、これもいた仕方ない。

どの部屋も悪いのであろう。

孫の 目が悪くならないように 心配だが。』

お風呂での天国、天国の勢で 幸せに包まれて その日は熟睡した。

あくる朝、家族がゾロゾロとジジの部屋に集まって来る。

『なに? このテレビ?こんなテレビを見ていたら 目を悪くするよ』

『え~ どの部屋もこんな映りではないの?』

『わたしの部屋のテレビは写真のように映っているよ』

『え~! 』

今までの極楽、極楽が何か妙な気分になった。

と、共に ある話を思い出した。

ある家族がやはり ホテルに入り、

丁度、クリスマスイブの日で、全員が ある部屋に集まり

イブを楽しんだ。

外には雪がちらつき、とても素晴らしいシチュエーションだった。

夢が醒め、昨夜のパーティーの残骸が部屋一面に散らかっている。

自分のお家ならその晩のうちに後片づけをするのだろうが、なんと言ってもホテルの一室だ。

ところが ヒョイとコップを見ると、その中に 正々堂々と肉色をした お婆さんの入れ歯が

入っている。『うえ~ 入れ歯をして居る方って、みんなこのコップで 洗っているの?』

昨夜のメリークリスマスが吹き飛んでしまったそうだ。

洗ってしまえば ピカピカと素晴らしい容器である。ところが 入れ歯が入って居るのを

見た瞬間、その容器は幾ら 洗い落しても、私たちの心の中では綺麗にはならない。

これが 【 般若心経の空 】なのだ。

そしてその空は 【不生不滅】

生ずることも、滅する事も

無く常住不変である。

【 不垢不浄】

心を穢す不浄なものもない。

【不増不減】

あらゆる物事は

空であるから、増えることも減ることもない。

テレビの映り具合も、 このコップも決っして汚い物では無いのだが…。
合掌

しあわせの家族旅行

家族旅行に行ってきた。

『一年に一度は是非、行きたいね』と申しながら、なかなか実現出来ない。

楽しさ、嬉しさを満喫させた家族の笑顔、一挙一動を見た時

『もう、これ以上の至極は無い』と感じた。

忙しいながらも、遣り繰りして 皆が揃うことが出来た。

天真爛漫とした孫の顔。これ以上の【しあわせ】が有ろうか?。

ジジが何時も言っている。

朝起きて、夜 眠るまで何の変化も無い。

それが 【最高のしあわせ】なのだ。

病気も、隣近所、関係者のお葬式も結婚式も無い。

鳥は泣き、川は流れ、雲は行く。

じっとしていても四季は絶えず変化している。

ハッと気がつけば、白頭をかけば

更に短く 既にカザシに耐えざらんと欲す。…何にもなく生涯を閉じるほどの幸せは無いのだ。

【春眠暁を覚えず、処処に啼鳥を聞く。夜来 風雨の声。花落つること知る多少ぞ。】

【白妙の 夏きにけらし白妙の 衣干すてふ 天香山】

【秋の田の刈穂のいほのとわをあらみ我が衣では露に濡れつつ】

思い出したら切りがないがその時、その場の関係者が、

無情にも、絶え間なく過ぎ行く四季に一喜一憂しながら歌をよんだ。

【何もないことが、何~もないことが しあわせなのだ。】

でもジジは今回の家族旅行により、その幸せよりも、もっともっとの幸せを得た。

あまりにも贅沢だ。

この贅沢に感謝し、それを糧として もっともっと 世のため人の為に尽くしたい。

でも また行きたいな。《強い願望の未来》

(うたは ジジが思い出したまま 読んだので 間違っていたらゴメンね。勉強してみて)

でも 家族旅行、また行きたいな。


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合掌

不動明王の 教え

81番札所

恵門ノ不動の願文を読みながら不動明王を勉強してみましょう。

《 大日如来の垂ジャクにして五大明王中の主尊なり》

不動明王は大日如来にお使えしている

5人の明王の中のリーダーである。

螺髪があったり牙があったり、

額には水波の皺が有るが

全般的には童子の様相をなさって居る。

《外には憤怒の形相を現し、外には大悲の徳を蔵して衆生加護の請願極まりなく》

父親か母親かと言うと 父親的な役目を持っておられ、

お観音さまが母親の役目を果たしておられる。

と、言ってお不動さんや観音様が男か女かと言えば どちらでもないのだ。

男の子が転んだ。母親は飛んで行って抱き起こし『 大丈夫? 怪我は無かった? 』と聞く。

父親は『男のくせに泣くな !早く起きろ』と、怒鳴ります。

願文にもある用に お顔は物凄い顔をなさって居るが、お心は母親の様に優しい。

《 大智の利剣と方便のケンサクを持って

97種の怨敵をサイ伏し ラン字の火炎ナ

三毒の罪障を悉く( ことごとく ) 噴焼したまう 》

利剣と縄で 私達が持って居る

ありとあらゆる悪い事を切り、縛って煩悩を祓ってくれるし

背負っている火焔で

私達がいつも勉強して居る 《三毒 》貪瞋痴(とん、じん、ち)を悉く、焼き尽くしてくれる。

故に私達は、産まれたての赤ちゃんの様に身も心も清浄になるのである。

お護摩には祈祷したり、供養したりあるが怨敵降伏祈願と言うのもある。

一生懸命、お不動明王さんにおすがりするのは良いが、中途半端でお願いをしたら

恐いですね。焚くほうも、焚いてもらう方も 命がけでね。

お不動さん、少しは 分かりました?
合掌

天国に 1番近い国

ブータンのテレビ放映が 目の中に飛び込んできた。

ジジは 完全なブータンのファンになってしまったようだ。

その国の名前が出てくると

思わず知らず耳が立つ。

丁度、レポーターがある寺院にお参りをして居る映像だった。

老若男女を問わず

仏塔を時計回りに回って居る。

ブータンの国教はチベット仏教で、これはジジはブータンに

行ったことも、国宗教を勉強した事も無いのであくまでも推測だが、

日本仏教ではお葬式の

時は反対回りにまわる。

このテレビ放映では信者の方々は

【 しあわせを求めて】回るからお葬式の反対の時計回りなのか?

むかし、インドからネパールに入った事があるが

宗教が違うにも拘らず、インドもネパールも

お葬式は日本と同じで 遺族の皆さんは 時計の反対回りに回っていた。

遺体に薪や木の葉等を置き、長男が泣きながら、それに火を付けて居た。

レポーターが『なぜ 仏塔をグルグル回っているのですか?』と、愚問を投げかけた。

『 仏様のおかげで、ブータンには 何処に行っても悪いことをする人は居ない』

『死後に私たちが行く 天国もこんな処なんだと思うよ』

『お金も 名誉も死んでしまったら、天国まで持っていけない。

そんなもの 無くったって充分、しあわせだ』

このコメントの素晴らしさは

1)しあわせの原点は 仏様のお加護のにある。

2)私たちが住んでいる、この地、この場所が既に【天国 】である。

今の日本で 本気で【日本は既に極楽浄土である】と、思っている人は何人居るだろうか?

【 天国への階段 】【天国に 1番、近い国 】と、言うのがあるそうだ。

それから考えると ブータンは 名実ともに 『天国に一番 近い国、いや、天国そのものでは

ないだろうか。

お不動さまと 火

身近かであって、

あまり知られて居ないお不動さんを

勉強してみましょう。

《 体色 青黒にして迦楼羅焔をへんぜり》

《右手に利剣を持ち、左手にはケンジャクを受し

大盤石の上に半跏座して住し給う》

なんか 前文でこれだけのページが要るのなら、文字の説明で終りそうだ。

仏教の前身、バラモン教やヒンヅー教の時代から

ホーマー( 火 & 護摩)と共に

重宝されて居た仏様で、

青黒いお身体をし

ベンボツの垂れた童子のお姿をし

右の手には剣を持ち

左手には縄を持ち

半跏座をして大きな岩の上に住して居られるのだ。

大日如来の 5人のお供の中の1人で

悪魔を降伏( やっつける)し退散する役目だ。

お顔も怖い顔で 上の歯と下の歯が互い違いに生えて居て、

額に水波の皺があり兎に角、

醜い顔である。

しかし お心は慈悲深く、非常に優しい。

背中には大きな火炎を背負っていて

悪いものは全て 焼尽( 焼き尽くす)する。

これではジジがフラストレーションが溜まるので、

次回 81番札所 恵門ノ不動の

《 願文 》を紐解いて説明することにしよう。
合掌

魔法の鏡

皆さんは 一日のうちで どれくらいの時間、鏡に向き合いますか?

女性では 1時間も2時間も掛けて 全く代わり映えしない化粧をして居る方も居るようだ。

最近では電車の中や街のあちこちで 手鏡で一生懸命、化けている光景を良く見掛ける。

ジジは髭を剃る時に 髭だけを見るくらいで、まじまじと顔なんかは見たことはない。

知らず知らずのうちに老醜を拒否しているのだろうか?

さて皆さんは 何気なく鏡を見ると【自分の顔】に対してハッとした事は有りませんか?

自分では 優しい佛の顔をして居ると思っていたら 【鬼の形相】だった。

『 ヘイヘイ 私はいつも仏さんですよ。ジジの一言を読んで 慈悲の心をもち、見返りを

考えないで 世のため人のため尽くしていますよ』心の中ではいつも本気でそう思い、

そのように実行しようと思っている。

ところが忙しかったり 虫の居所が悪かったりした時に

知らず知らずの内に、鬼の形相に変わっている事はないだろうか?

にっこり顔は笑っていても目が笑って居ないときもある。

ジジは思う。私たちは 心の中に【 魔法の鏡 】を持たなければならない。

電車の中で、街のあちこちで、そっと自身の顔を見る必要が有るのではなかろうか?

【 和顔愛言 】よく聞く言葉ですね。

そしてその行為は 私達が日頃、目指している

布施の中の 【 顔施 】という行為なのです。

《 童心 》穢れのない心と口と身体。

その人の顔を見ただけで その場がほのぼのと成り

みんなが ホッとする。そのような 人になって貰いたいものだ。

ジジも 今から 魔法の鏡 買ってこよ~っと。
合掌

般若心経の 【 智慧】 とは?

先日、物事は移り変わる。

【 諸行無常 】を書いた。

経の教えにそれを説いている。

難しくならない様に書くから 読んでね。

[ 麗しき容(かお) 常に 麗しからず 亦 必ず波の文に移す]

[黒髪 常に黒からず やがて雪の色に変ず]

いくら美男子だ、美女だと言っても

やがては 顔に皺がより 頭の色は真っ白になる。

真っ白だったらまだ良いが [年寄りの正座に禿げ頭]

『ハゲ頭に免じて正座を汚させて頂きましょう』

と、禿げてしまうのだ。

昔 書いた川柳で

[ 世の中は 娘が嫁と 花咲いてカカと萎んで、婆と散りゆく]

と言うのがある。悲しい女性の一生ですね。

そんな中でこんな 小話がある。

むかし大庄屋が亡くなった。庄屋には3人の妻がいた。

1人目の妻は 綺麗で庄屋も1番 目を掛けていた。

『金の切れ目が縁の切れ目。

これで実家に帰らせて貰います』と

帰って行った。

2人目の妻は

『生涯を連れ添った 愛しいお方。野辺まで送らせて頂きます』と、

親族の方々と野辺送りをした。

3人目の妻はお上手にも美人とは言えず、

3人に中で1番、疎遠だったが、

その妻は

『あなたが 行く所へは 何処までもついて行きます』と、

浄土まで着いてきた。

1番目の妻は【 欲 】で有り

2番目が 実際の【彼の妻】

そして庄屋が1番重きに置いてなかった妻が

【智慧 】だったのだ。

私たちの智慧は私達が行くところに、

何処にでも付いてきてくれます。

そしてそれがお観音さまの【 慈悲 】の心なのです。

最後に 経文を贈ります。

[ 今 凡夫 無常の姿を変えて まさに如来常住の體(たい)を 得べし】
合掌

なでしこジャパン

今年ももう 一年が過ぎ行こうとしている。

先日、今年の 流行語大賞が発表された。

色んな素晴らしい言葉がノミネートされ

ジジは 《 絆 》 に一票をいれたが

意外にも《なでしこジャパン》だった。

どちらも 大震災に対して大きな力をくれた。

なでしこジャパンは全く無名だった

彼女たちが 次々と勝ち進み、

あれよあれよと言って居る間に 頂点を極めた。

この情熱は疲弊した日本国民と 被災地の皆さんに

活きる(生きるではない)勇気と希望を

与えてくれた。

そして【被災地の皆さんは勿論の事、

体力のない日本をもう一度、

私たちの力で 復興させたい】

誰もが いうか言わないかで そう思った筈である。

折角 全員の力を結集して立て直そうとする復興作業も、

歯車がバラバラで しかも

不平不満でお互いに自我を出し、やりたい放題やったのでは、何にもならない。

【皆さんの会社】然り【皆さんの地域】然り【皆さんの家庭】然り、

全員がガッチリと

絆を築いているからこそ大願するので、

考えが、行動がバラバラだったら、

なに1つ成就しない。

会社で信望を得られないような人が、

地域でお互いにまた家庭で信望を

得られる筈がない。

● 1日に一度は 今日一日の反省をする。(仏壇の前が1番良いが拘らなくて良い)

●もし、自身が悪いと思えば、素直に謝る。

●三毒を無くす勉強(特に 自我を出さないように気をつける)

●拘りをすてる

一辺に視界が広がり、雲一つない晴天になり

一般的に申すと[ 目から鱗が落ちる]のである。

それはそうと 書いている内に、ジジも考えが変わってきた。

[ なでしこジャパン]に一票投じようかな?
合掌

子安観音にて 報恩感謝 の柴燈大護摩 : 厳修

寺内法要の締め括りとして

師走、子安観音寺にて大護摩が焚かれた。


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昨日の大雨とは打って変って

暖かで風もなく最高の日和での 法要だ。

住職が 挨拶の中で

【 今年は 東日本 大震災や色んな出来事が有ったが

この法要は昨日の大雨から 打って変って、

初冬随一のお天気の中で行う事が出来た。

皆さんの 来年一年の“幸せ”は受けあいだ。】と、

言う事と

【 皆様に “ありがとうの宝燈”を沢山、奉納して頂き

お陰さまで県道から 寺まで大型の観光バスが入るようになりました】

と、お礼を述べた。

また 【 ありがとう 】の話の中で

《 四恩 》をといた。

1)天地万物に対する恩。

2) 国王に対する恩。

3) 両親に対する恩。

4) 衆生に対する恩。

天地万物がなければ

私たちは食することも

眠ることも

衣服を身に付けることもできない。

国王は今で言うと、日本全体の事を指すのでしょうね。

また 私たち国民の為に、足繁く

足を運び、優しいお言葉をかけてくださる皇室の皆さんでしょうか?

内閣でしょうか?

私たちは父母の対する恩愛を忘れてはいけません。

そして何と言っても衆生の恩です。

隣のおじさん、おばさん、地域の皆様無しでは 生活して行くことは出来ません。

これは《 四恩 》と言って、私たちが生きて行く上で最も大切な事だと

仏様は言われて居ます。

【 ありがとう 】感謝の意味を込めたこの言葉。

美しいですね。

お互いがお互いに感謝し、礼拝し合う姿。最高です。

今日の 師走の素晴らしいお天気のように。

今、『大根を炊きに 40年間休みなしに 奉仕させて頂いている』

と言うおじさんが

真っ赤な顔をして 大根を炊いて居た。
合掌

報恩感謝の 柴燈大護摩 : 前日

子安観音寺にて今年、最後の柴燈大護摩が明日、嚴修される。

先日も申したように 大根を煮炊きしてくれる人、お餅をついてくれる人、行者さん、

檀信徒の皆さん、大勢の方々が我が事のように 喜んで奉仕をして下さっている。

【 恵門講 】と言う恵門ノ不動を中心とした 大きな組織がある。

今日の前夜祭は

その恵門講の役員会、総会も兼ねている。

勢があった時は2400食の弁当を出した事が有ったが

それから考えると昨今の凋落ぶりは目に粗利ある。

お参り自体、昭和54年11月3日、

高野山の菅長猊下の御導師のもとに

【山の観音、本堂の落慶法要】が有ったがその時、

お弁当の数が1万5000個を最高に、増減はあるが減少の一途をたどっている。

栄枯盛衰。

世の中は 寸分も止まらず物事は流れ、移り変わる。

人も、物も、そして心も。

若き日に意気揚々と【恵門講】の旗をあげた方々も、もうこの世の方で無かったり、

病気やご高齢になって島にこれない方が増えてきた。

お大師さまは、【 物事を 比較するべからず 】と申しされている。

『隣の子は、運動も勉強も出来るのに なんでうちの子は こんなに違うの! 』

『隣の主人は部長に昇格されたが、なんでうちのパパは何時までも 平社員なの ! 』

人と人とを比較する。

昔はどうの、今はどうの。

多いの少ないの。

大きいの小さいの。

その比較が ついに【愚痴】になってしまう。

比較せずに 何故そうなったのか 冷静に考え、それに対処すれば良いことなのに。

ジジも『お参りが 減った、減った』と、嘆かずに どうすれば一人でも多くの方が

参拝して戴けるか、よく考えよっと !
合掌

私は もっともっと 幸せ者です

【 アランの幸福論 】の感想文が出来上がり、

いつもは、そう興味を示さないのだが

掃除をして居た家内がそれを読んだ。

眼を通したあとの第一声は 感想文の評価でなく

『私は もっともっと 幸せ者です』だった。

次の日曜日に子安観音寺にて《 報恩感謝の柴燈大護摩》が厳修される。

年末を迎え、

[震災があったり大変な一年であったが、

私自身は そして家族は無事に日暮らしをさせて

頂いて ありがとうございます。そして来年も健康で幸せになりますように] と、

お礼とお願いの為のお護摩である。

この法要には名物の【 うどん 】の他にもう一つ 接待がある。

【 中風よけの 大根】だ。

95歳で黄泉の国に旅立たれたが、報恩感謝の柴燈大護摩が始まって直ぐに

『中風にもならないで 参拝者全員に元気になって貰おう』と、

自分の畑で 全て大根を

作り 寺に持って来て、自分で炊いて 参拝者に振舞うのだ。

一度も 紹介された事はないが

参拝者は それをなによりもの楽しみにして参ってくる。

ところが 先年、そのお爺さんが居なくなった。

大根の接待を続けるかどうか

存亡の機に直面した寺は 有縁の方を頼って お爺さんの遺志を継ごうとした。

最初はお一人だけ 相談に乗ってくれ、ささやかだが皆さんの口を喜ばすことが出来た。

ところが 次の年から『お爺さんの遺志を継ぎましょう』と、相談した方々だけででなく

大勢の信者さんから我も我もと申し入れが有ったのだ。

『今まで、私達が喜こんで頂いた分、今度は私達が皆さんを喜ばせるのだ』

お爺さんの遺志を継いだ方達の熱意は熱かった。

『お爺さんが亡くなった 年には 大根を接待してくれる人が少なかったのに 何で急に

増えたのやろうな? 』

ジジがとぼけたような事を申すと

『 大根は種をまいて 一年かかる』

との事。

全く面目ない。

それにしても 皆さんの心、嬉しいですね。

《他人が喜ぶ姿をみて 我がも喜ぶ 》

あれ? 昨日の哲学論が出てきたかな?

家内の 【幸せを】背負って、

今日 各地、各場所に大根を頂きに回る。

合掌

笑うから しあわせ なのだ

テレビのスイッチを入れると丁度、知った方が出演していた。

諏訪病院の名誉院長だ。

昭和60年の仏齒東遷法要にも来られ

それ以来、ジジも一方的に知人として信州に行ったら先生のお家を訪問する。

哲学者 【 アランの 幸福論 】を数人のコメンテーターと話し合っていた。

《 幸福だから笑うのでなく 笑うから幸福なのだ 》

途中から見たのだが一番に眼に

飛び込んで来たのが その言葉だった。

アランと先生の言葉を2~3紹介しよう。

● 【 幸福は義務である 】

先生の患者で末期ガンのご夫人が居られ その方は自分の死期を知っている。

フランス料理店を経営なさっている方で、

先生との話の中で 病院にて フランス料理を

作ることになった。

勿論、夫人は見違えるように健康人の様にテキパキと働いたが

亡くなった後で、主人が

『あの時の家内は 本当にしあわせでした』と話した。

『死ぬ前に いい時間を頂いた』

あれにしようか、これにしようか?

死を直前にして

自暴自棄になったり、悲観したり、目標を失ったりするものだが、

この先生の提案は瞬間だが

幸せを与えてくれた。

生まれて死ぬまで私達には しあわせを得る可能性があり、一瞬に考え方をかえられるものだ。

●【 幸福を 希望せよ 】

今年の あの未曾有の大震災に 先生は何度も慰問に行かれた。

先生が忙しいのは、まだ

救いが有るのだが、お坊さんが忙しいのは耐えられない。

先生が遺体安置所に赴くと

40才代の女の方が 2人の遺体を目前にして手を合わせていた。

お悔やみを申すと、

その方は 『 このように両親は波に呑まれましたが、それでも私は幸せ者です』

と申した。

『えっ? 』と先生が振り返ると

『先生、流された半数の人は まだ見つかって

居ません。しかし両親は見つかった。

しかも片方だけだったら、もう一人が悲しむけれど

二人とも目の前の前に居ます。これで文句を言ったら 罰が当たります』

涙ながらに申す。

視点を変えて物事をみると、全く別のしあわせが見えるものである。

●【幸福は捧げるものである 】

自分自身が 幸せになるのでなく、その幸せを他人にあげるもので有る。

その時の他人の喜びを見て 初めて自身の幸せを得るももである。

アリャ? これはジジが いつも言っている言葉ではなかったかな。


アランの幸福論より

合掌
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