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【人の非を 責めず 自分の非を 認める 】




150115-1写真

【繰り返される悲劇 幼児虐待を繰り返す父親】

そんな 新聞記事が 目に止まった。
26歳になる 北海道に住む 無職の父親が
生後4ヶ月の 娘を虐待し 娘は意識不明だ。

幼児虐待の 言葉が踊っても
腹はたっても 驚かなくなった。

悲劇は 彼方此方で 枚挙に挙なく繰り返され
憤怒と 悲しみを抱いた 多勢のひとたちが
それに 耐えている。

『職を 失うし 子供は 懐かないし
ムシャクシャしてやった』

父親は 自分を正当化して そのように言った。



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夏目漱石の 愛弟子である 寺田寅彦が
【柿の種】という 本の中で このように言っている。

ゲゲゲの鬼太郎では ないが
ある日、殺人を犯した人の 魂だけを
眠っている 墓場に 呼び集められる。

神仏が 彼らに 聴く。

『あなた方は 既に 死んでしまって
死人には 罪はないというが 反省はしていますか?』

すると 1人の魂は 大声で言った。
『正当だ。俺が やったことは 正当だったんだ』

すると あちこちで 魂たちは 異口同音に いった。

『わたしは 何も 悪いことは していない。
悪いのは 死んだ人間の ほうだ』

神仏は 云う。

『それなら あの時の 犯行現場にいって
その始終を 再現しているところを
第三者に なったと思って ご覧なさい』

魂たちは ゾロゾロ犯行現場に ついて行き、
第三者的に 再現を 見て 大声で言った

『悪かった。
俺が 間違っていた』



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正当性 または 正義というものは
本質的に 主観的なのもでは ないだろうか?

わたしの 立場からみれば
わたしが 正当であり 正義で有るのだが、
相手の立場からみれば
正当性や 正義は 相手側にある。

【忠臣蔵】 赤穂浪士にしても
浪士側から みれば 彼らは義士であって
正当性は 彼らのほうに ある。

一方 、吉良上野介 側からみると
赤穂浪士とは 理不尽な 殺人集団に すぎない。

このように 正当性というものは
見る立場によって 違ってくる。

問題は どうすれば 自分の非を
認めるように なるのだろうか?

お観音さんの
【大慈大悲の 観世音菩薩 】との 請願がこれだ。

その人の気持ちに なり切る。
つまり 相手の立場に 立つということだ。

慈しみと 思いやりの心を 持ち
決して 自分がされて 嫌なことは 他の人には しない。

1番 最初の 墓場の話に 戻るのである。

その人の 心の中に …
いや、その人に なり切ったからこそ 始めて
『わたしが 悪かったのだ』 と 懺悔ができるのだ。
合掌




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